超短編小説and雑文・morimorispyのブログ

ちょっと、短編小説らしきものを書いてます。日々の雑文も書いてます。

文化大革命と日本

昔は都会と田舎の文化的な差は大きくて、特に洗練された都会の女子大生などを見たりすると、俺は田舎者だなあ。というよくある劣等感にさいなまれた。

インカレの左派の文学サークルに入った理由は、左翼だから、田舎者でも差別はされないだろうという算段だった。

ところが、実際は、若手の批評家や詩人、学者、小説家志望者のたまり場で、私は彼らが最初何を言っているのか、日本語だったが、分からなかった。

それが恥ずかしくて、今まで生きてきた中で芋ずる式に本を乱読して、勉強した。

田舎者の無知というのがあれば、私はそれを味わった最後の世代かもしれない。

知識というのはいかに、それが貧乏人の味方の面をしていても、やはり、それは、階級的な知なのだ。大学教員に左翼やリベラルな教授が多いのも、階級的な知識力の差であって、特に文系の場合、理論は海外から輸入するから、語学力と理解力というやはり技術がそのまま力となって、大きな格差ゆえに、最新の知識を教える左翼やリベラルな学者が重宝される、というのが、私が、当時、理解した限りの構造だった。

これは今考えると滑稽だが、知識と語学という技術に基づいて深遠に技術の批判をする学者とか、文化大革命を一部評価する有名大学出身の学者とか、素朴に考えると、今はどうか知らないが、矛盾したものがあり、矛盾こそ、力だと言ったのは、確か、ヘーゲルだったような気がしたが、そういうことを矛盾を指摘したら教員に言われた。

文化大革命というようなものは日本では起こらない。日本人はそれほど言葉を信じてはいない国民だから。左右の違いにかかわらず。

だけども、民衆の正しさと怨念が一致するところに文化大革命があるとすれば、日本で真っ先に下方されるのは、ブルジョワ左翼の知識人連中だったとおもう。彼らは日本でもう、ほとんど生息していないが、それはいかにも日本らしいが、テレビという日本の民衆文化に敗北したのだ。中流幻想的な技術としての、また文化としてのテレビに負けた。それも、また、日本的な階級の闘争ではある。良くも悪くも。