もうすぐ友人が亡くなって一年がたつ。
それは終わったこと。という意見もあるだろう。確かにそうだろう。友達の多い人だったから、思いはそれぞれの友人、知人なりの受け止め方はある。
野心の中に生きてはいた。途方もない。だが、現実との折り合いも、もう少し、あれば、と今になって思う。現実に埋没しすぎている自分が言えた言葉ではないが。
死んでいったその他の友人・知人のことも考える余裕が出てきた。最近。
最近、東京とは才能と未来のある若者の生き血を吸って、生きながらえている場所ではないかとさえ思う。
凡庸さを受け入れることは、自分の場合、凡庸ですらなく、魯鈍だともいえるが、その無能とも言える自分と折り合いをつけるのは、一度、洗練された文化商品(芸術や学問)の味を知ってしまったものには難しいことではある。
田舎にこそっと帰ってしまった自分が言える立場ではないが。
結局、無能な田舎者らしく、ありきたりな命題にたどり着く。
なぜ、時として「生」は金持ちにとっても、貧乏人にとっても「苦痛」なのか?