超短編小説and雑文・morimorispyのブログ

ちょっと、短編小説らしきものを書いてます。日々の雑文も書いてます。

インターステラーを今更見た。

政治の世界でも、芸術の世界でも、私が知る限りでは、どこかで見た、或いはどこかで経験した、という反復の意識が強く濃厚に、漂っていて、そのことに意識的な批評家・芸術家・観客にある種の既視感が「歴史的」に共有・想起され、退屈さを強くさせる。

反復の意識はそのまま、批評や作品にも投影されないともう作品ではない。批評ではない。という次第。それがそのまま、「感動」ではなく、「退屈さ」を称揚した作品が「芸術」と呼ばれる事態を作る。

そのこと自体が、メタ批評、或いはメタ芸術、そして、メタ政治へと人を向かわせ、そのこと自体に難解すぎる批評や作品が素人や初心者を拒絶する。

しかし、私が思うに、それは、科学や医学のめちゃくちゃな早い進歩、或いはアフリカ原産の予期しない疫病、等々の話が持ち込まれることはなくて、人文科学或いは社会科学経由の作品の「批評」や「研究」のそれなりの長い歴史の中で悲観主義が蔓延している、という反復。

しかし、そういう事態に忘れがちなのが、新たな概念の打ち止めや作品の既視感は昔からあったのではないかという、疑問を私は感じる。

インターステラーは地味な設定のSF映画だが、感動したのは、タルコフスキーの作品がが時折、そうであるような観念遊戯を耽美的に楽しむというのではなくて、問題に真正面から取り組む誠実さである。

しばらくすると地球が住めなくなる→新しい居住可能な惑星を見つけに行く→たった一人のパイロットはでも、娘が父として心配。

というシンプルな前置きは、大変勇気のある直球勝負の映画だ。哲学も難しくはないし、悲観的な色調もなく、いい意味でシンプル。必要以上の難解さもない。しかし、もしかしたら、いずれ、人類にやってくるかもしれない問題として、テーマを処理している。

ヨーロッパ経由の終末論的耽美映画とはそこら辺が一線を画している。科学主義はまずいが、科学や医学、物理学を勉強しましょうよ。新しい知識を取り入れましょう。ニヒル前に勉強しましょうよ。意味の牢獄ではなくて、科学で新しい領域が開拓されているなら、そちらも見たうえで、哲学しましょう。解釈しましょうよ。

と言っているような映画だった。私のような古い人間にとっては。

今の医科学の進歩が人間にとっては危険なのか希望なのか、分からないが、ハリウッドのSF映画は理系の最新の知識を設定として導入してから、嘆いたり、希望を与えたりしている。未だ人文哲学的な批評が横行している日本って、なんだろうか。