超短編小説and雑文・morimorispyのブログ

ちょっと、短編小説らしきものを書いてます。日々の雑文も書いてます。

今日は友達とドライブ


"Last Tango in Paris" (Tango) Composed by Gato Barbieri

高校時代から受験勉強にいそしんで、東北の旧帝大の法学部に入って、地元の銀行に勤めた高校の先輩が、たまに会うとぼやくのが、東京の私大に行きたかったとか、いろいろ。

その友だちの車中で、友だちがしきりに言ったのが、英文学を学びたかったということ。

その友達の英文学好きと映画好きには私も影響を受けた。高校時代。

日はまた昇る」ヘミングウェィ:のリリシズムとか、「甘い生活フェリーニ:ではなく、「ラストタンゴ・イン・パリ」の方がすごいとか言って、私もそれなりにその友達から影響を受けた。

車中で

「銀行止めて、英文学ってありかな?」

「家族どうするんですか?あなたの。」

「いや、ゴーギャンがいるだろ。」

「皆が皆、ゴーギャンというわけには。。。仕事、つまんないんですか。」

「それが前提だろ。人間。」

「やっぱ、研究するとしたらヘミングウェイですか。もし、そうなったら。」

「というより、でもあれ、若い独身者の文学、なんだよな。それより、今は一生かけて、ヘンリー・ジェイムスの原書を読みたい。な。時折、寝床に入ると、この世界から逃げ出したくなる。子供や女房や時計の音や家族の寝息や、いろいろ。」

 

私の友達は選択を間違えたのか、間違えなかったのか。それは解らない。

この友人がもし文学部に入っていたら、文学に失望したかもしれない。

それも分からないが。

家族を差し置いて、この年上の友人のマークⅩの助手席に日曜日の真昼間から、

文学談義をできるのは、もう、私がこの友人の向こう側に行ってしまった人間だから。

この友人が必死で耐え抜くのは、世間の真ん中にいて、地域経済に貢献している、身元の良い、良き社会人でいること。つまりは普通の人でいることだ。

私が知ることがこれからもないだろうその苦労を引き受け、耐え抜き、地域エリートとしていることは、尊敬に値する。

逆説だが、ハイデガーの「存在と存在者の違い」があるならば、今、この世の中で、普通の人として、凡庸人として、「存在者」であることに耐え抜くことの方が、「存在」の声に耳を傾ける詩人であることより難しい。

結局、ドロップアウトすることの方が、何倍も、普通の人として耐え抜くよりも、今の世では簡単なことだ。と私のようなフリーターは思う。