超短編小説and雑文・morimorispyのブログ

ちょっと、短編小説らしきものを書いてます。日々の雑文も書いてます。

生活と思想・雑文

昔、仲のいい学者がいたのだが、私が田舎に帰るとしばらくすると、音信が途絶えた。「音信が途絶えた」と書くとカッコイイが、要は、電話番号を変えられたということだ。

田舎では本当に親に申し訳ないが、帰ってしばらくは、プラプラしていた。

それで、今、地元に友達がいろいろいるのだが、昔はそうというわけではなくて、東京の友達に、いろいろ電話をかけて、迷惑をかけた。

思想の違いとか、変化とか転向とか、色々、仲たがいした思想学者や活動家の話を聞いてはいたが、私の場合は、その学者に、関係を切られたのは、要は私の「電話がうざい」ということだろう。その頃学者に彼女ができたし。仕事も忙しいし。

この「電話がうざい」というのは、学者の私への個人的な友情関係の粛清の理由だったが、今考えるのは「電話がうざい」というのは「思想」だろうか、或いは、「思想」ではなく「生活」だろうかということだ。

「電話がうざい」とか「あいつが田舎者だから、嫌い」とか「都会人を気取っているから、嫌い」とか「料理がうまいから尊敬する」とか、こういった軋轢も友情も、哲学や思想が云々という軋轢もあるだろうが、「思想」であり、また「生活」であると、最近、思えてきた。

なにも外国や日本の難しい本を読んで、それが前提として、議論が成り立つという手続きを踏まないと、思想の対決にならない。というわけではなくて、「あいつ、何となく、嫌い。」とか「かっこいいから好き」とかも、立派な「思想」の始まりであり、また、一方で、「生活」の始まりであり、議論の根っこではないかと、昔のことを考えては思う。状況の分析から始まって「ヘーゲルがうんぬん」とか「フロイトラカンが云々」とかいろいろ、有るけれども、その解釈の違いや意見の違いには「立場」や「頭の良し悪し」があるけれども、やはり、例えば「電話がうざい」というのは「生活」の根本であり、かつ「思想」の根本であると思った。

政治も同様で、なにも、デモ行ったから、「俺は政治に参加した。」と威張るほどのものでもないだろう。威張ってもいいが。「何となく嫌い・好き」というのも、立派な政治の始まりだと思う。

昔のことを反省している。